ゆかりの人物

鶴岡八幡宮の御朱印|倒壊した大イチョウは、新しい姿でよみがえろうとしていた(神奈川県 鎌倉市)

鶴岡八幡宮の御朱印 1063年「源頼義」が京都の石清水八幡宮を「鶴岡若宮」として勧請 前九年の役で戦勝祈願をした神社 1081年「源義家」が修復 「鎌倉八幡宮」とも呼ばれ、以降源氏の守り神とされる 「源頼朝」は鶴岡八幡宮を篤く崇敬 鎌倉幕府開府と同年、「鎌倉八幡宮」を現在の場所へ遷す 幕府の重要祭事として「放生会」「流鏑馬」「相撲」「雅楽」などを境内で執り行う
京都府

金戒光明寺の御朱印|新選組の名前が生まれたお寺(京都府 京都市)

金戒光明寺の御朱印 法然上人が結んだ草庵が始まりとされる、とても歴史の深いお寺。幕末には京都守護職「会津藩主・松平容保公」が本陣を敷いた場所で、新選組ともかかわりが深い。
千葉県

長福寿寺の御朱印|とにかくご利益(特に金運UP)が欲しい方必見!!(千葉県 長南町)

いつも参拝するお寺とはちょっと違った雰囲気の、楽しいお寺に出会いました。ゾウの像が可愛い。
千葉県

千葉神社の御朱印|千葉氏ゆかりの地千葉神社は、仏教と融合した珍しい神社であった。(千葉県 千葉市)

千葉神社の御朱印 平安時代末期、関東南部を統治した「平良文たいらのよしぶみ」が「北辰妙見尊星王ほくしんみょうけんそんじょうおう」を信仰 「北辰=北極星」であり、北極星・北斗七星を神格化ている 「平良文」を祖に持つ「千葉氏」が一族の守護神として「北辰妙見尊星王」を各地に祀る 千葉氏3代目「平忠常たいらのただつね」が、領内各地に祀られる「香取神社」境内の一角に「妙見」を祀る 第66代「一条天皇」が眼病平癒を祈り完治したことから、寺号「北斗山金剛授寺」を贈る これを受け「忠常」は伽藍を整備、息子を大僧正に就けて1000年(長保2年)に中興開山 源頼朝、日蓮上人、徳川家康など名だたる人物も参拝し崇敬 1869年(明治2年)神仏分離令により千葉神社へ改称 妙見大祭の「神輿渡御」が神社の様式だったから 千葉神社へ改称以降も「妙見信仰」と習合する神社となっている 社殿は2階建てのようになっており、上下2つの拝殿を持つ国内の重層社殿
神社

太宰府天満宮の御朱印|全国約12,000社!天神様と菅原道真はどんな人?(福岡県 太宰府市)

太宰府天満宮の御朱印 「天満宮」とは「菅原道真」を祭神として祀る神社のこと 天神様=菅原道真 太宰府天満宮は「菅原道真公の霊廟」として篤く信仰されている 京都「北野天満宮」と並び、全国約12,000社ある天満宮の総本社 菅原道真の死後、亡骸を牛車に乗せて運んだところ、現在社殿のある場所で動かなくなる 道真公の意思を感じ、その場所に埋葬 その後、墓所の上に社殿を造営し「太宰府天満宮」となる
千葉県

宗吾霊堂の御朱印|民のために自らの命を懸けた人のお寺(千葉県 成田市)

宗吾霊堂の御朱印 「桓武天皇」の勅命により「坂上田村麻呂」が創建(推定:700年頃) 坂上田村麻呂が房総を平定した際、戦没者供養のために建立された真言宗豊山派の寺院 佐倉宗吾の伝説 当時、度重なる凶作と、佐倉藩の追い打ちをかけるような重税に農民が苦しんでいた 見かねた名主の「木内惣五郎」ら6名が藩へ窮状を訴えるも取り合ってもらえず 覚悟を決めた「惣五郎」が徳川将軍へ直訴 ようやく訴えを聞き届けられ、佐倉藩の領民たちは救われた 面目をつぶされた藩主「堀田正信」が怒り、惣五郎夫妻を貼り付け、子供4人は死罪に これを宗吾霊堂の当時の和尚「澄祐ちょうゆう」が刑場跡に埋葬 100年後の佐倉藩主「堀田正亮まさすけ」が惣五郎に対し「宗吾道閑居士」の法号を諡号しごう 以降「佐倉宗吾様」と呼ばれ、人々から親しまれるようになった
大阪府

住吉大社の御朱印|日本全国に約2,300社!住吉神社の総本社に行ってきた(大阪府 大阪市)

住吉大社の御朱印 第14代「仲哀天皇」の后「神功皇后」が(211年)創建 神功皇后の新羅平定(三韓征伐)後、住吉大神の加護に感謝して創建したと言われている 古くから信仰が篤く「摂津国の一宮」として社格が与えられる 鎌倉時代の「源頼朝」をはじめ、多くの武家から崇敬される 全国約2,300社ある住吉神社の総本社 昭和21年までは、朝廷や国からお供え物をする「官幣大社」だった 本殿の4棟は【国宝指定】
神社

富士山本宮浅間大社の御朱印|全国1,300社!浅間神社の総本山に行ってきた(静岡県 富士宮市)

富士山本宮浅間大社の御朱印 第7代「孝霊天皇」の時代(推定:紀元前300~200年) 富士山大噴火により、周辺住民が離れる 第11代「垂仁天皇」の時代(推定:3世紀高後~4世紀前期) 「垂仁天皇」がこれを憂い、山足の地(=富士の山裾)に「浅間大神」を祀る 第12代天皇の時代(推定:4世紀前~中期) 「日本武尊」が駿河国で野火の難に遭い、「浅間大神」に祈念し難を逃れる 平定後「山宮(現:山宮浅間神社)」に磐境いわさかを作り「浅間大神」を祀る 第51代「平城天皇」の時代(平安初期:806年) 「平城天皇」の命により「坂上田村麻呂」が「大宮の地(現在地)」に社殿を造営 元は「福地神」の社地だったが、この移転に合わせて現「富知神社」へ移転 「源頼朝」「北条義時」「武田信玄・勝頼」「徳川家康」など多くの武家から崇敬される 「源頼朝」は富士山麓の巻狩り時、流鏑馬を奉納したとされる 境内のしだれ桜は、武田信玄寄進によるもので「信玄桜」と呼ばれている 「徳川家康」は関ヶ原合戦勝利のお礼として境内一円を一気に整備 富士山8合目以上を境内地として寄進
神社

三嶋大社の御朱印|源頼朝が深く信仰したのはなぜか?(静岡県 三嶋市)

三嶋大社の御朱印 創建時期は不明だが、奈良時代の古書にも記録が残っている 東海随一の神格で、平安時代中期に編纂された「延喜式」に「名神大」として掲示されている 伊豆に流された「源頼朝」は特に深く信仰し、源氏の再興を祈願した 源氏再興後、頼朝は多くの社領や新法を寄進し、より一層信仰を強めた 北条政子が奉納したと伝えられる「梅蒔絵手箱」と内容品一式は【国宝】 源氏再興の成功以後、伊豆国の一宮として多くの武家からも信仰を集めた 地理的には、東海道に面し下田街道の起点に位置しており、伊豆国の一宮として広まった
寺院

瑠璃光寺の御朱印|なぜ、山口発展の象徴となったのか?(山口県 山口市)

瑠璃光寺の御朱印 嘉吉2年(1442年)、「大内義弘」の菩提を弔うために弟「盛見」が建立 当時は「香積寺」の境内だった 江戸時代初期、「香積寺」が萩へ移転、跡地に「瑠璃光寺」が移転してくる 以降「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれている 室町時代の優れた建築の一つとして、国宝指定 屋外にある五重塔としては国内で10番目の古さ 京都「醍醐寺」、奈良「法隆寺」と並び日本三名塔の一つに数えられることもある 大内文化の最高傑作 香山墓地 萩市の「天樹院」「大照院」「東光寺」とともに長州藩主の墓所となっている 明治維新当時の13代当主「毛利敬親」などの墓がある 「瑠璃光寺五重塔の下には、大内義弘の棺が埋まっている」との口伝がある
京都府

本能寺の御朱印|織田信長「自刃の地」墓所はどこにある?(京都府 京都市)

本能寺の御朱印 応永二十二年(1415年) 、日隆聖人によって「本応寺」として創建 油小路高辻と五条坊門の間の地(今とは違う場所) 日蓮大聖人の教えを広める「法華宗本門流」の大本山 7度もの建立を繰り返したお寺 1度目:日隆聖人によって「本応寺」として創建 2度目:妙本寺の教徒により壊され再建 3度目:如意王丸から土地の寄進を受け、六角大宮に「本能寺」として建立 4度目:「天文法華の乱」で焼き討ちに遭い再建 5度目:本能寺の変にて焼失し、豊臣秀吉の命を受けて現在地に再建 6度目:天明の大火で焼失し再建 7度目:蛤御門の変で焼失し、1928年に現在の本堂再建 何度も火災に遭うので「能」にある「ヒ」の文字を嫌い「去」をあてた文字としている 織田信長と本能寺 天正10年、秀吉に毛利攻めを命じ、数十名の手勢を従え本能寺入り 明智光秀に、秀吉援護を命じる 17,000の軍勢を率いて居城の亀岡城を出た光秀が、途中で反旗を翻す 「敵は本能寺にあり!」 そのまま本能寺へ向かい完全包囲、明け方攻め込む 寝込みを襲われた信長は多少の抵抗を試みたのちこれを断念 寺に火を放ちそのまま自刃  織田信長の三男「信孝」が集めた遺骨をもって墓を建てたとの伝承がある
土方歳三

會津藩の街並みを散策してきた!(福島県 会津若松市)

新選組局長「近藤勇」が眠る会津の街。ここは京都守護職「松平容保公」が治めた会津藩の土地でもある。豪雪地帯でも知られる会津の街並みでは、そこかしこで幕末の歴史に触れることができた。
土方歳三

天寧寺の御朱印|「會津」には近藤勇の墓所がある(福島県 会津若松市)

天寧寺の御朱印 1413年に創建されたお寺 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建 近藤勇と天寧寺 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている
寺院

了仙寺の御朱印|鎖国時代、ペリー提督一行がやってきた寺!(静岡県 下田市)

了仙寺の御朱印 1854年(嘉永7)「日米和親条約」締結により、下田開港 のちに締結される「下田条約」にかかる、アメリカとの交渉場所が了仙寺 先に締結済みの「日米和親上条約」規定に基づく追加13条の付帯協定のこと
愛知県

熱田神宮の御朱印|あの『三種の神器』の一つが祀られている!?(愛知県 名古屋市)

熱田神宮の創建は113年(景行天皇43年)と、今から1900年以上前からある神社 三種の神器の1つである草薙剣くさなぎのつるぎを祀る神社として有名 名前の由来: 日本武尊が賊に襲われた際、持っていた神剣が草を薙なぎ倒して事なきを得たことによる 三種の神器のあと2つは 「八咫鏡やたのかがみ」→「皇居」所持 「八尺瓊勾玉やさかにのまがたま」→「伊勢神宮」所持 伊勢神宮に次ぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬を集めている 皇室をはじめ、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉からの寄進された品々を多く収蔵している 2009年に現在の社殿が再建され
天皇陵

天皇陵|昭和天皇の眠る武蔵陵墓地ってどんなところ??(東京都 八王子市)

東京都八王子市長房町にある皇室墓地。大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵が造営されている。 昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵(たまごりょう)と称しており、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。宮内庁書陵部多摩陵墓監区事務所がある。
京都府

知恩院の御朱印|浄土宗総本山の迫力に圧倒された(京都府 京都市)

「法然」が開山 江戸時代初期、徳川家康が知恩院を永代菩提所と定める 家康・秀忠により、本堂や山門など多くの建物が建立される その後火災によりほぼ全焼するが、家光のもとで直ちに再建される 境内は3段に分かれている 上段:開創当初の敷地で勢至堂・法然廟がある 中段:徳川幕府によって造営された敷地で本堂など中心的な伽藍がある 下段:中断と同じく徳川幕府造営の敷地で山門・塔頭寺院がある
天皇陵

天皇陵|花園天皇陵ってどんなところ??(京都市 東山)

花園天皇陵 父の伏見天皇と同じ持明院統の系統 南北朝時代は北朝側に付き、光厳上皇を支えた 晩年は禅宗信仰に没頭し、建武2年(1335年)11月に出家 法名は「遍行」 御所を「妙心寺」として開基 幼少期から歌道・学問・書道を好む 和歌では『風雅和歌集』の監修を行うほど、和歌を好んでいた
どうする家康

芝東照宮の御朱印|徳川家康を祀るあの東照宮が東京タワーの近くにあった??(東京都 港区芝公園)

芝東照宮の御朱印 江戸時代初期の1617年、増上寺の境内に創建 増上寺は徳川家の菩提寺 家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれている 徳川家康の「寿像」をご神体とする 還暦記念に自身の像を家臣に彫らせたもの 「芝東照宮」「日光東照宮」「久能山東照宮」「上野東照宮」は四大東照宮と呼ばれる 明治の神仏分離令により増上寺から切り離され、現在の芝東照宮となった 1945年の東京大空襲により「寿像」と神木であるイチョウを残し、全て焼失 1969年に現在の社殿が再建された
千葉県

證誠寺|「しょ、しょ、しょうじょうじ♪」の童謡でお馴染みのお寺は実在する(千葉県 木更津市)

證誠寺の御朱印
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