都道府県別

千葉県

宗吾霊堂の御朱印|民のために自らの命を懸けた人のお寺(千葉県 成田市)

宗吾霊堂の御朱印 「桓武天皇」の勅命により「坂上田村麻呂」が創建(推定:700年頃) 坂上田村麻呂が房総を平定した際、戦没者供養のために建立された真言宗豊山派の寺院 佐倉宗吾の伝説 当時、度重なる凶作と、佐倉藩の追い打ちをかけるような重税に農民が苦しんでいた 見かねた名主の「木内惣五郎」ら6名が藩へ窮状を訴えるも取り合ってもらえず 覚悟を決めた「惣五郎」が徳川将軍へ直訴 ようやく訴えを聞き届けられ、佐倉藩の領民たちは救われた 面目をつぶされた藩主「堀田正信」が怒り、惣五郎夫妻を貼り付け、子供4人は死罪に これを宗吾霊堂の当時の和尚「澄祐ちょうゆう」が刑場跡に埋葬 100年後の佐倉藩主「堀田正亮まさすけ」が惣五郎に対し「宗吾道閑居士」の法号を諡号しごう 以降「佐倉宗吾様」と呼ばれ、人々から親しまれるようになった
大阪府

住吉大社の御朱印|日本全国に約2,300社!住吉神社の総本社に行ってきた(大阪府 大阪市)

住吉大社の御朱印 第14代「仲哀天皇」の后「神功皇后」が(211年)創建 神功皇后の新羅平定(三韓征伐)後、住吉大神の加護に感謝して創建したと言われている 古くから信仰が篤く「摂津国の一宮」として社格が与えられる 鎌倉時代の「源頼朝」をはじめ、多くの武家から崇敬される 全国約2,300社ある住吉神社の総本社 昭和21年までは、朝廷や国からお供え物をする「官幣大社」だった 本殿の4棟は【国宝指定】
神社

富士山本宮浅間大社の御朱印|全国1,300社!浅間神社の総本山に行ってきた(静岡県 富士宮市)

富士山本宮浅間大社の御朱印 第7代「孝霊天皇」の時代(推定:紀元前300~200年) 富士山大噴火により、周辺住民が離れる 第11代「垂仁天皇」の時代(推定:3世紀高後~4世紀前期) 「垂仁天皇」がこれを憂い、山足の地(=富士の山裾)に「浅間大神」を祀る 第12代天皇の時代(推定:4世紀前~中期) 「日本武尊」が駿河国で野火の難に遭い、「浅間大神」に祈念し難を逃れる 平定後「山宮(現:山宮浅間神社)」に磐境いわさかを作り「浅間大神」を祀る 第51代「平城天皇」の時代(平安初期:806年) 「平城天皇」の命により「坂上田村麻呂」が「大宮の地(現在地)」に社殿を造営 元は「福地神」の社地だったが、この移転に合わせて現「富知神社」へ移転 「源頼朝」「北条義時」「武田信玄・勝頼」「徳川家康」など多くの武家から崇敬される 「源頼朝」は富士山麓の巻狩り時、流鏑馬を奉納したとされる 境内のしだれ桜は、武田信玄寄進によるもので「信玄桜」と呼ばれている 「徳川家康」は関ヶ原合戦勝利のお礼として境内一円を一気に整備 富士山8合目以上を境内地として寄進
神社

三嶋大社の御朱印|源頼朝が深く信仰したのはなぜか?(静岡県 三嶋市)

三嶋大社の御朱印 創建時期は不明だが、奈良時代の古書にも記録が残っている 東海随一の神格で、平安時代中期に編纂された「延喜式」に「名神大」として掲示されている 伊豆に流された「源頼朝」は特に深く信仰し、源氏の再興を祈願した 源氏再興後、頼朝は多くの社領や新法を寄進し、より一層信仰を強めた 北条政子が奉納したと伝えられる「梅蒔絵手箱」と内容品一式は【国宝】 源氏再興の成功以後、伊豆国の一宮として多くの武家からも信仰を集めた 地理的には、東海道に面し下田街道の起点に位置しており、伊豆国の一宮として広まった
寺院

瑠璃光寺の御朱印|なぜ、山口発展の象徴となったのか?(山口県 山口市)

瑠璃光寺の御朱印 嘉吉2年(1442年)、「大内義弘」の菩提を弔うために弟「盛見」が建立 当時は「香積寺」の境内だった 江戸時代初期、「香積寺」が萩へ移転、跡地に「瑠璃光寺」が移転してくる 以降「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれている 室町時代の優れた建築の一つとして、国宝指定 屋外にある五重塔としては国内で10番目の古さ 京都「醍醐寺」、奈良「法隆寺」と並び日本三名塔の一つに数えられることもある 大内文化の最高傑作 香山墓地 萩市の「天樹院」「大照院」「東光寺」とともに長州藩主の墓所となっている 明治維新当時の13代当主「毛利敬親」などの墓がある 「瑠璃光寺五重塔の下には、大内義弘の棺が埋まっている」との口伝がある
京都府

本能寺の御朱印|織田信長「自刃の地」墓所はどこにある?(京都府 京都市)

本能寺の御朱印 応永二十二年(1415年) 、日隆聖人によって「本応寺」として創建 油小路高辻と五条坊門の間の地(今とは違う場所) 日蓮大聖人の教えを広める「法華宗本門流」の大本山 7度もの建立を繰り返したお寺 1度目:日隆聖人によって「本応寺」として創建 2度目:妙本寺の教徒により壊され再建 3度目:如意王丸から土地の寄進を受け、六角大宮に「本能寺」として建立 4度目:「天文法華の乱」で焼き討ちに遭い再建 5度目:本能寺の変にて焼失し、豊臣秀吉の命を受けて現在地に再建 6度目:天明の大火で焼失し再建 7度目:蛤御門の変で焼失し、1928年に現在の本堂再建 何度も火災に遭うので「能」にある「ヒ」の文字を嫌い「去」をあてた文字としている 織田信長と本能寺 天正10年、秀吉に毛利攻めを命じ、数十名の手勢を従え本能寺入り 明智光秀に、秀吉援護を命じる 17,000の軍勢を率いて居城の亀岡城を出た光秀が、途中で反旗を翻す 「敵は本能寺にあり!」 そのまま本能寺へ向かい完全包囲、明け方攻め込む 寝込みを襲われた信長は多少の抵抗を試みたのちこれを断念 寺に火を放ちそのまま自刃  織田信長の三男「信孝」が集めた遺骨をもって墓を建てたとの伝承がある
土方歳三

會津藩の街並みを散策してきた!(福島県 会津若松市)

新選組局長「近藤勇」が眠る会津の街。ここは京都守護職「松平容保公」が治めた会津藩の土地でもある。豪雪地帯でも知られる会津の街並みでは、そこかしこで幕末の歴史に触れることができた。
土方歳三

天寧寺の御朱印|「會津」には近藤勇の墓所がある(福島県 会津若松市)

天寧寺の御朱印 1413年に創建されたお寺 1868年の戊辰戦争でお堂焼失後、同年に再建 近藤勇と天寧寺 天寧寺には近藤勇の首(又は遺髪)が埋葬されている 東京板橋にて処刑後、京都の三条大橋下流で首を晒され、その後天寧寺へ 首の埋葬時、新選組副長「土方歳三」が会津の東山温泉にて湯治中だったと言われる 当時の会津藩主「松平容保公」より、戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈られる 千葉県流山で別れて以後、「近藤勇」と「土方歳三」再開の場となった 現在、「近藤勇」の墓碑の隣に「土方歳三」の慰霊碑も建立されている
寺院

了仙寺の御朱印|鎖国時代、ペリー提督一行がやってきた寺!(静岡県 下田市)

了仙寺の御朱印 1854年(嘉永7)「日米和親条約」締結により、下田開港 のちに締結される「下田条約」にかかる、アメリカとの交渉場所が了仙寺 先に締結済みの「日米和親上条約」規定に基づく追加13条の付帯協定のこと
愛知県

熱田神宮の御朱印|あの『三種の神器』の一つが祀られている!?(愛知県 名古屋市)

熱田神宮の創建は113年(景行天皇43年)と、今から1900年以上前からある神社 三種の神器の1つである草薙剣くさなぎのつるぎを祀る神社として有名 名前の由来: 日本武尊が賊に襲われた際、持っていた神剣が草を薙なぎ倒して事なきを得たことによる 三種の神器のあと2つは 「八咫鏡やたのかがみ」→「皇居」所持 「八尺瓊勾玉やさかにのまがたま」→「伊勢神宮」所持 伊勢神宮に次ぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬を集めている 皇室をはじめ、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉からの寄進された品々を多く収蔵している 2009年に現在の社殿が再建され
京都府

知恩院の御朱印|浄土宗総本山の迫力に圧倒された(京都府 京都市)

「法然」が開山 江戸時代初期、徳川家康が知恩院を永代菩提所と定める 家康・秀忠により、本堂や山門など多くの建物が建立される その後火災によりほぼ全焼するが、家光のもとで直ちに再建される 境内は3段に分かれている 上段:開創当初の敷地で勢至堂・法然廟がある 中段:徳川幕府によって造営された敷地で本堂など中心的な伽藍がある 下段:中断と同じく徳川幕府造営の敷地で山門・塔頭寺院がある
どうする家康

芝東照宮の御朱印|徳川家康を祀るあの東照宮が東京タワーの近くにあった??(東京都 港区芝公園)

芝東照宮の御朱印 江戸時代初期の1617年、増上寺の境内に創建 増上寺は徳川家の菩提寺 家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれている 徳川家康の「寿像」をご神体とする 還暦記念に自身の像を家臣に彫らせたもの 「芝東照宮」「日光東照宮」「久能山東照宮」「上野東照宮」は四大東照宮と呼ばれる 明治の神仏分離令により増上寺から切り離され、現在の芝東照宮となった 1945年の東京大空襲により「寿像」と神木であるイチョウを残し、全て焼失 1969年に現在の社殿が再建された
千葉県

證誠寺|「しょ、しょ、しょうじょうじ♪」の童謡でお馴染みのお寺は実在する(千葉県 木更津市)

證誠寺の御朱印
寺院

寛永寺 両大師の御朱印|大師様のツートップ?!(東京都上野)

両大師の御朱印 慈眼大師じげんだいし「天海てんかい大僧正」と慈恵大師じえだいし「良源りょうげん大僧正」の両大師を祀るお堂 慈眼大師「天海大僧正」 寛永寺を開山した天台宗の僧侶。慈恵大師良源大僧正を尊崇。 織田信長の焼き討ちで荒れ果てた比叡山延暦寺を、復興した僧侶。寛永寺創建の際には延暦寺に見立てた、と言われている。また、吉野の桜を取り寄せ上野を桜の名所にしたことでも有名。 慈恵大師「良源大僧正」 正月3日に亡くなったことから「元三大師がんざんたいし」とも呼ばれる。比叡山延暦寺の度重なる火災による荒廃の復興を行った。また、規律乱れる僧たちへの教学を推し進め「比叡山中興の祖」と称賛されている。優れた霊力があり、鬼の姿となって疫病神を退散させた時の姿を護符にした「角大師」が非常に有名。おみくじの創始者でもある。 江戸初期、天海大僧正を祀るために創建 もともと寛永寺の伽藍の一部で、「開山堂」・「慈眼堂」と呼ばれていた 後に、寛永寺本坊にあった「慈恵堂」から「慈恵大師像」を移設 以降「両大師」と人々から親しまれるように 平成元年の火災で、開山堂及び本堂が焼失 現在の本堂は再建されたもの
寺院

上野大仏(パゴタ)|合格祈願はココ!!受験生必見!上野公園にある合格大仏に行ってきた(東京都 上野)

上野恩賜公園の一角に、不思議な大仏がある。上野に大仏があることは今では多くのメディアで取り上げて結構有名な存在になってきた。上野に来たらぜひ大仏様に会いに来てほしい。おそらくこのような姿の大仏様は日本中でここだけなので。
寺院

不忍池辯天堂の御朱印|「財」を増やすご利益あり?!(東京都上野)

不忍池辯天堂の御朱印 江戸初期の「寛永年間」に「慈眼大師天海大僧正」によって建立された 不忍池や寛永寺を含む「上野の山」は「見立て」という思想によって設計された 「見立て」は京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味する 見立て1:「寛永寺」は寛永年間創建=「延暦寺」は延暦年間創建 見立て2:「不忍池」=「琵琶湖」 見立て3:元々聖天が祀られていた小さな島=竹生島 見立て4:新たにお堂建立=竹生島の「宝厳寺ほうごんじ」 見立て5:参拝は琵琶湖から竹生島へのルートと同様に、船を使用 江戸後期には庶民の間で七福神詣でが流行したこともあり橋が架けられる 弁才天の「才」の文字「財」と読み替えて、金運を授けてくれる神として信仰されるように
北条義時

鎌倉殿の13人|完全に義時ロス(神奈川県 鎌倉市)

新しい大河も始まりましたが、見るたびに「義時ロス」に陥っていたので 懐かしみながら纏めました。 大河ドラマ絶賛放映中に『大河ドラマ館』へ行ってきた。
大河ドラマ

傳通院の御朱印|新選組の前身「浪士組」結成のきっかけとなった場所(東京都 文教区小石川)

室町時代に、浄土宗第七祖「聖冏」が開創 聖冏の弟子「聖聡(増上寺の開山上人)」の切望により開山 徳川家康の側室「茶阿の方」の菩提寺がある 傳通院の境内にあった子院「処静院」で浪士組が結成 清河八郎の墓所
北条義時

宝戒寺の御朱印|義時も住んでいた北條執權邸舊蹟へ(神奈川県鎌倉市)

宝戒寺の御朱印 鎌倉時代、執権として活躍した北条氏の邸宅跡(通称小町邸) 北条氏が代々住んでいた(泰時・経時・政村除く) 元弘の乱による鎌倉討伐で新田義貞が攻め入った際、屋敷は焼失 1333年北条氏滅亡後、北条氏の霊を弔うために「宝戒寺」を建立 建立したのは後醍醐天皇の命を受けた「足利尊氏
千葉県

蔵光寺の御朱印|人里離れたところにある日蓮宗の寺院(千葉県山武市)

蔵光寺の御朱印 
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