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長福寿寺の御朱印|とにかくご利益(特に金運UP)が欲しい方必見!!(千葉県 長南町)

いつも参拝するお寺とはちょっと違った雰囲気の、楽しいお寺に出会いました。ゾウの像が可愛い。
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千葉神社の御朱印|千葉氏ゆかりの地千葉神社は、仏教と融合した珍しい神社であった。(千葉県 千葉市)

千葉神社の御朱印 平安時代末期、関東南部を統治した「平良文たいらのよしぶみ」が「北辰妙見尊星王ほくしんみょうけんそんじょうおう」を信仰 「北辰=北極星」であり、北極星・北斗七星を神格化ている 「平良文」を祖に持つ「千葉氏」が一族の守護神として「北辰妙見尊星王」を各地に祀る 千葉氏3代目「平忠常たいらのただつね」が、領内各地に祀られる「香取神社」境内の一角に「妙見」を祀る 第66代「一条天皇」が眼病平癒を祈り完治したことから、寺号「北斗山金剛授寺」を贈る これを受け「忠常」は伽藍を整備、息子を大僧正に就けて1000年(長保2年)に中興開山 源頼朝、日蓮上人、徳川家康など名だたる人物も参拝し崇敬 1869年(明治2年)神仏分離令により千葉神社へ改称 妙見大祭の「神輿渡御」が神社の様式だったから 千葉神社へ改称以降も「妙見信仰」と習合する神社となっている 社殿は2階建てのようになっており、上下2つの拝殿を持つ国内の重層社殿
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宗吾霊堂の御朱印|民のために自らの命を懸けた人のお寺(千葉県 成田市)

宗吾霊堂の御朱印 「桓武天皇」の勅命により「坂上田村麻呂」が創建(推定:700年頃) 坂上田村麻呂が房総を平定した際、戦没者供養のために建立された真言宗豊山派の寺院 佐倉宗吾の伝説 当時、度重なる凶作と、佐倉藩の追い打ちをかけるような重税に農民が苦しんでいた 見かねた名主の「木内惣五郎」ら6名が藩へ窮状を訴えるも取り合ってもらえず 覚悟を決めた「惣五郎」が徳川将軍へ直訴 ようやく訴えを聞き届けられ、佐倉藩の領民たちは救われた 面目をつぶされた藩主「堀田正信」が怒り、惣五郎夫妻を貼り付け、子供4人は死罪に これを宗吾霊堂の当時の和尚「澄祐ちょうゆう」が刑場跡に埋葬 100年後の佐倉藩主「堀田正亮まさすけ」が惣五郎に対し「宗吾道閑居士」の法号を諡号しごう 以降「佐倉宗吾様」と呼ばれ、人々から親しまれるようになった
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證誠寺|「しょ、しょ、しょうじょうじ♪」の童謡でお馴染みのお寺は実在する(千葉県 木更津市)

證誠寺の御朱印
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蔵光寺の御朱印|人里離れたところにある日蓮宗の寺院(千葉県山武市)

蔵光寺の御朱印 
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波切不動院の御朱印|なんか凄いところに建ってます!!(千葉県山武市成東)

波切不動院の御朱印 海の守り神として信仰を集める 奈良時代、行基が建立したかなり古いお寺 近海に海難が多いことから、海難除けの不動明王尊像を刻まれた(行基作) 不動尊の常夜灯が沖合を漂流する漁船まで「波を切るように届いた」ことから「波切不動尊」と呼ばれるように
どうする家康

最福寺の御朱印|徳川家康と日善上人の関係性とは(千葉県 東金市)

ご朱印 最福寺  最福寺の住職であった日善上人と徳川家康との出会いは、鷹狩りのため家康公が東金を訪れたことがきっかけだった。鷹狩り期間中、最福寺御殿にて対談したとの記録が残っている。半年後、豊臣征伐の決断ができずにいた家康公は、駿府城へ日善上人を招き密談を行っている。ここでのやり取りが決定的となり、家康公は豊臣征伐を決定し、後の大坂夏の陣へと進んでゆくのであった。
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